乾くるみ『イニシエーション・ラブ』文春文庫

ネタバレ注意。
良いミステリには二種類あると思う。読み終わった後、眩暈感に陶酔しながら、その甘い愉悦に孤独のうちに浸っていたいと思わせられるもの。たとえば『霧越邸殺人事件』や『夏と冬の奏鳴曲』がそうだ。その一方で、読み終わった後やたらとテンションが上がってしまい、ニヤニヤしながら読み返したり、誰彼構わず読むことを強制してしまうような作品がある。たとえば『斜め屋敷の犯罪』や『人格転移の殺人』がそう。個人的にね。
そしてこの作品は、明らかに後者に属する、それも一級品のアッパー系ミステリである。まったく愚にもつかない恋愛小説が、ラスト二行で完全にひっくり返る。そこで明らかになる物語の隠された構図は、一瞬の戦慄の後のとてつもない興奮を読む者に約束するだろう。
叙述トリックの存在は知っていた。人物錯誤まではなんとなく読めたけど、ここまでキレイに時系列錯誤と絡めてくるとは予想外だった。テープのA面B面に見立てた演出まで完璧で、ほぼ理想的なフォルムのトリックだと思うが、はっきり云ってこの小説のキモはそのトリックの仔細にあるのではない。そのトリックを理解して後に明らかになる、より大きな物語の構図にある。そのトリックが明かされるのは、ラスト二行である。だからその後には、物語はない。「あれ、じゃああのシーンって…」「あのセリフって…」じわじわと蘇る記憶と膨れ上がる興奮が、頁を遡らせる。そして、気づく。

こわっ!

もうなんだろう、「格の違い」ってやつだけを見せ付けられる小説なんですよね。「便秘」とか「タック」とか、この小説のプロットを支える名シーン、名台詞は枚挙に暇がないけど、恋愛小説として唯一哀切なシーンだった「名前を呼ぶ自然さ」の部分が、読み返すと滑稽で…だから格が違うんだってば。
読み返して作者が仕掛けた罠に触れるたび、戦慄する。その戦慄は作者に対してでなく…もう云っちゃうけどこの小説の真の主役である「女」に対して。その意味で美弥子というもう一人の「女」に「女優」という属性が与えられているのは素敵にアイロニカルだ。この小説はただ、繭子という「女」の…あるいはそれに名前など必要ないのかもしれないが…、その悪魔的なまでの「女優」性を描いた小説なのだから。
作品の評価はA。

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

イニシエーション・ラブ (文春文庫)