村上春樹『1Q84』新潮社

ネタバレ注意。
ちゃんと面白い小説が読みたくなったので、後輩に貸してもらいました。素敵でした。ありがとうございました。
あまりにも面白い小説を読むと、多分興奮のあまりということになるのだと思うけど、吐気を催すような瞬間があって。この小説は俺に久々にその身体感覚を喚起してくれた作品でした。いつ以来か思い出せないのだけど、もしかしたら『鉄鼠の檻』以来かもしれない。
ということで、そりゃこんだけ面白かったら売れるわアホか、という貫録のミリオンセラ。「村上春樹」を称揚する言葉なんていまさら宇宙大に溢れている、なんて留保はかつてのレビューにもしたけれど、それでもひとしきりは感嘆を吐き出さなければならないでしょう。
だから、いまさらかよ、というツッコミはこないだ読んだ意味の分からん冒険小説とはまったく別の意味でナシね。あ、ちなみに2冊を正味3日で読みました。
まず、緊密にして流麗な文章が、その作品世界への没入に大きく貢献している。主人公は二人いて、そのどちらもが物凄く素敵な造形だけれど、二人ともストイックで客観的、作者によってよく用いられる形容に拠れば「中立的」すぎて、一般的な意味での感情移入を拒否している。だけどめちゃくちゃ面白い。「感情移入」というものを介さずして小説にのめり込ませるという、まったくスペシャルなリーダビリティだ。
物語は序盤から、さまざまに暗示的で魅力的なガジェットを振りまいて展開するが、終盤に至ってまったくシンプルな構造に落ち着く。そこで中心を成す二人の主人公の「思い」の強さは、それまでが沈着なストイシズムに貫かれた行動が描かれていただけに、なおさら胸を打つものになっている。
あとはやっぱり、なんつってもユーモアだな。

 本人がなんと思おうと、それは間違いなくハゲなの、と青豆は思った。もし国勢調査にハゲっていう項目があったら、あなたはしっかりそこにしるしを入れるのよ。天国に行くとしたら、あなたはハゲの天国に行く。地獄に行くとしたら、あなたはハゲの地獄に行く。わかった? わかったら、事実から目を背けるのはよしなさい。さあ、行きましょう。あなたはハゲの天国に直行するのよ、これから。
(book1,116-117p)

姐さん! つって笑い転げた。この前後の青豆姐さんは神がかっていらっしゃいます。
下ネタばっかで申し訳ないけどもう一節。

「じゃあ逆の言い方をすれば、じきに世界が終わるというのは、睾丸を思い切り蹴られたときのようなものなのかしら」と青豆は尋ねた。
「世界の終わりを体験したことはまだないから、正確なことは言えないけど、あるいはそうかもしれない」と相手の男は言って、漠然とした目つきで宙を睨んだ。「そこにはただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて、救いがない」
(book1,233p)

姐さんいい加減にしてくださいwww
下ネタ以外だったら、

「その引用のポイントはどこにあるんですか?」
「ものごとの帰結は即ち善だ。善は即ちあらゆる帰結だ。疑うのは明日にしよう」と小松は言った。「それがポイントだ」
アリストテレスホロコーストについてどう言っているんですか?」
 小松は三日月のような笑みを更に深めた。「アリストテレスはここでは主に芸術や学問や工芸について語っているんだ」
(book1,307p)

とかかな。地下鉄ん中で笑えちゃって困ったよ。
…こんなとこばっかりメモってるのは俺がアホなんじゃなくて、魅力的なイメージやクリティカルな比喩について、一個一個今さら言及するということへの羞恥心ゆえだと理解いただけると嬉しいです。中学生じゃないから、もう。
…先に進みましょう。
中心的な問題意識、あるいはそれを喚起する存在として「宗教」があったことは疑いない。コミューンとか宗教とか、奥泉光『葦と百合』なんかで個人的にも大好きな「ガジェット」だったけど、この小説におけるそれは「テーマ」として、実在の団体・カルトを如実に想起させながらも、それとは別の次元で見事に抽象化されていると思った。
青豆と「リーダー」との対話は、まず間違いなくこの小説のハイライト・シーン。昏く澄んだ深海の底に引き摺りこまれるような、まったく稀有な読書体験だった。青豆は、その唾棄すべき行為を死によって報わせるべく「リーダー」と対峙するわけだけど、そのような物語構造にも関わらず、その報復の対象がこんなにも崇高な存在感を顕わしているという点だけで、作者の問題意識のレベルがモデル云々、批評性云々のレベルにないことは証明されている。このような巨大な存在感と強烈な吸引力を備えたシーンを現出せしめたことだけでも、この小説は現代文学の傑作のひとつと数えられるべきだろう。
じゃあなんなんだよ、って話は結局いつものエクスキュースで逃げる以外にはないんだけど、少なくともその手がかりのようなものは貰ったような気もする。周辺を聞きかじったところによれば、ジョージ・オーウェル1984年』は、「ビッグ・ブラザー」なる、スターリンモデル(?)の絶対統治者が登場する話らしい。『1Q84』における「リトル・ピープル」が顕す「なにものか」が、そうした「絶対統治」とは真逆の、しかし明確な「全体性」であると読むことはできるだろう。宗教団体だのその指導者だのなんてレベルじゃなくて、もっと正体不明で、不気味で、でもだからこそ強力な。
だとすればそれに対する、天吾とふかえり、そして青豆のレジスタンスは、明確な対象を持たないまま、どこまでも徹底して個人としての毅然を保ち続けることに他ならず、彼らがストイックで時としてどこか不思議で、感情移入しきれなかったとしても、しかしこんなにも美しく見えるのは、その「不断の行為を不断に行い続ける」ことの美しさゆえなのだろうと思える。青豆姐さん、その中心には「愛」があると自ら述べたりなんかしてて。でも天吾とふかえりのセックスがそこでどういう役割を果たしているかはよく分からないw もう中学生じゃないけど、そこはエクスキューズさせて!
そしてだから、小説としての全体性の要求が「引金を引く」ことを必然としていたとしても、それへのレジスタンスが実を結ばないと、どうして言いきれましょうか(声を大にして)!! 彼らのレジスタンスに終わりはなく、だからきっとこの物語にも「終わり」はないんだよ、多分。
評価はA+。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

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