『ノルウェイの森』

2010.12.18@ミッドランドスクエアシネマ
もちろん原作は読んでいるのですが、村上春樹作品の俺序列の中では上位ではないこともあって、あまり思い入れのある作品ではありません…というか、ディテールを憶えていないので、あまり細かく踏み込んだ感想は書けそうにないのですが。
観ていて一番思ったのは、直子が「痛々しすぎる」ということでした。僕の中で、原作の小説に氾濫する「死」や、それに惹かれていく、あるいは追いやられていく「引力」のようなものは、もっと謎めいて神秘的なものだったように思うのです。キズキに関してはともかく、映画の直子はそれに反して、あまりにも明白に、分かりやすく、剥き出しに晒されて「壊れて」いる。その狂気や孤独の表現を見ていると、その「死」は完全に不可避のものであって、その過程があまりにも痛々しくて、厭な言葉ですが「可哀相」であるが故に、僕はもういっそ早く殺してやってくれとまで思いました。
直子の菊地凛子が「イメージと違う」という方は多分大勢いるでしょうし、僕もご多聞に漏れませんが、それでも監督が、直子を「こういう風に」撮ろうと思ったのであれば、おそらく彼女以上の達成をできた女優はいないと思います。端的に熱演だと思いますし、狂気も孤独も必要以上に染み渡ってきました。冬のシーン、マフラーを巻いたワタナベが、寮を出て部屋を探すから、来たくなったら来ればいい、というようなことを話すシーン、二人の表情があまりにもよかったし、直子の心情を思えばあまりにも悲しくて、僕は正直ボロボロと泣いてしまったのですけど、あのシーンの喚起力は、直子を「この」造形にした、監督の咀嚼と女優の表現の勝利だと思えました。
しかし、それを感じられたのはほぼそのシーンだけでしたね、僕は。セットもロケーションもカットも、あらゆる画面構成の美しさは、トラン・アン・ユン、さすがの手腕だと思ったし、音楽も多少大仰な場面こそあれ、物語に寄り添いながらもクセのある自己主張をした、好感の持てる仕事でした。
しかしそれらも、結局は原作者の、あまりにも豊饒なイメージと、流麗な文章、あるいはこの映画に欠落したユーモアや軽みによって構成される作品世界を思えば、やはり何かが常に不足しているように感じられてしまいます。端的なのはやはりキャラクタに関する魅力とそのディテールで、その後嫁とした話から記憶を甦らせてみれば確かに、突撃隊も、永沢さんもハツミさん*1も、そして決定的にはレイコさんが、足りない。それは多分、映画の尺にしたいが故の捨象とは、あまり関係なく。思い入れのない僕が「足りない」と思うのだから、緑と赤の本を常に持ち歩いていたような人たちから思えば、いかばかりか。
…まあでも、そもそもワタナベというキャラクタじたいが、春樹の小説世界から離れて見れば、なんとも適当な人間に見えてしまうのですけどね。「人間としての責任」という言葉が、なんだかしゃらくさく聞こえるぐらいに。でもこれは、これに説得力を持たせるのは、多分映像・演技の枠では不可能だと思う。監督も松山ケンイチもがんばったよ、うん。でもベランダのシーンはもっとがんばってほしかったけどな。唯一憶えてたんだ、あのシーン。
ところでこの作品、久々に「凄く観たい」と思った映画でした。まあそれがなくても観たは観たでしょうけど、一番のモチベーションになったのは、予告編CFやFMでの番宣でよく耳にした主題歌の素晴らしさだったのです。清廉なギターの音色に、ああワタナベは、この曲を聴いて「思い出した」のだなあと、その感覚がすとんと自分の中に入ってきたのですよね。エンドロールで聴いてたら、やっぱり凄く良かったです。ビートルズいいと思ったのは初めてでした。

*1:初音映莉子は『うずまき』以来だったけど、久々に見れてなんか嬉しかった。