『bedside yoshino #2』

ソロ2nd。
名盤です。歌詞カードが入っていないので、歌詞を聴き起こしながら聴いていたのですが、ずっと泣いてました。
歌ものとインストが半々の構成、インスト曲もそれぞれ多彩な音像で聴き応えがありますが、なによりこのアルバムに関しては、炸裂する唄心、涙腺直撃です。
たとえば「デクノボーさん」、シンプルで瓢げたサウンドとメロディに乗る、流浪のリリシズム。

歌うのは 生きる為か 消える為か
歩くのは 進む為か 戻る為か
(「デクノボーさん」、歌詞聴き取り)

たとえば「坂道を帰る女」、いつになく落ち着いた低音でブルージィに歌われる、暗欝にさえ聞こえるフォークソングに結実した、叙景詩としての達成と深い物語性。

黒い海を抱きながら 女は帰って行く
砕け散るような 騒ぎから逃れてきた
耳鳴りを振り切って帰る
(「坂道を帰る女」、歌詞聴き取り)

なんだろ、北海道の港町、場末のスナックのホステスの話かしら、なんて想像を逞しくしてしまいます*1
吉野のローカリティは、自身の過去に珍しく言及した「N1F2〜札幌1985〜」(作中随一の疾走感と激しさ!)にも顕れていて、これは確かにソロでなければ聴けない一面であるでしょう。

この想いは過ぎ去って 何処へ行くの
時計台の鐘が鳴って 雪が降って 何処へ消えるの
(「N1F2〜札幌1985〜」、歌詞聴き取り)

詩として切れ味のあるフレーズは枚挙に暇がない。吉野寿という人のリリシストとしての資質が、バンドサウンドから離れて、より赤裸々で直截的に晒された作品だと思いました。イースタンの活動とはなかなかいい補完関係にあると思う。
それを端的に示すのがラスト、「片道切符の歌」。イースタンにおいても屈指の泣きのアンセム、ほぼギターのみ、より「唄」にフォーカスした再解釈で、その泥塗れの信念がより輝かしい作品となっています。

誰もが知っている、誰でも知っていることが
未だに分らないから
探してばかりの、迷ってばかりの日々を
今日も又、繰り返すだけ
(「片道切符の歌」)

「ホシミテアルク」「月の明りをフラフラゆくよ」など、夜のイメージが強い後半の流れで、「片道切符の歌」のラストの情景は、より一層鮮烈です。
それはまた、闇雲な信念とそれに対する賛歌…イースタンユースが、眩い昼の情景と、バンドサウンドの轟音の中で表現するものと、吉野寿の根幹が揺るぎもせず通底するのだと、そんな信頼感の故でもあるのでしょう。

地平線の彼方の朝焼けが 小さな背中を押すようだ
切符は片道だ 分らない儘、列車は走る
迷った儘で、行け
(「片道切符の歌」)

bedside yoshino#2 (ベッドサイドヨシノ#2)

bedside yoshino#2 (ベッドサイドヨシノ#2)

*1:《微笑む癖 独り微笑む癖/坂道を登ってゆく 登ってゆく》。染みる。