『FAKE』

@名古屋シネマテーク
「事件」後の佐村河内夫妻に密着した、森達也によるドキュメンタリ。
雨の土曜日*1の午後、一回/一日の上映に超満員のシネマテーク。観客一人一人に、それぞれの観方があったことと思います。そういう映画でした。
佐村河内夫妻に感情移入して観れば、それこそ「事件」に再検証が必要だと憤る人もいるだろうし、無私の人として描かれる夫人をヒロインとした、苦境にある一組の夫婦の恋愛映画と観れもするでしょう。端々に演劇的な人格を感じさせる佐村河内氏を「やっぱアレやん」と切り捨てることも、《豆乳…大好き》に爆笑しながらネタキャラとしてイジリ倒すことも可能。あるいは猫映画として観る*2ことだって。マスコミ批判、メディア批判はその内最もオーソドックスな視覚の一つ*3
何が真実で、何がfakeなのか。当事者たちの振舞い*4にも、それを映す作家の側*5にも、それぞれの真実と、それを誇張あるいは隠蔽するfakeがあって、それを取り巻くメディアとジャーナリズムも含めて、「絶対」などというものは存在しない。ましてそれを受け取る側の視覚一つで、それはいかようにも変質してしまう。作品を観てて、別に「ますます分からなくなった」みたいな感想はなかった、むしろおぼろげに自分なりの解釈の落としどころは見えた気がしたけど、そうしたことを考えさせられる時点で、ドキュメンタリの姿勢として正しい、優れた作品と自分には映った。
事件糾弾側の二者への取材依頼が拒否されるテロップで、一方は「事務所に拒否」、一方は「多忙を理由に」となっていたのも、それぞれに対する姿勢・評価が端的に見えた気がした。それまで自分の生きてきたのとは異なる論理に呑み込まれて、道化的な振舞いに右往左往する者と、自分なりの「絶対正義」の旗印*6を掲げて、《偉い先生》*7として影響力を行使する者と。後者に関して言えば、記者会見での手話をめぐるやり取りは、当時の一般視聴者にはとても分かりやすい詐病の構図を提供したけど、しかし作中の聾唖者カウンセラからは「喧嘩を吹っ掛けられた」とのコメントを引き出し、しかしそうした捉えられ方もまた、切り取られ方による恣意だとメディア側の糾弾者が自己弁護するという、きわめて作品の主題に沿ったドラマを提供してくれたことでも、映画を成立させた最大の功労者の一人であろう。
なんにせよ、すごくエキサイティングだったし、笑えたし、せつなかったし、最近にしては長いエントリ書けるぐらい語りたいことのある充実作でした。初めてシネマテークに足を運んだ動機に、森達也って作家への興味と同時に、題材への野次馬的興味を否定しないけど、その関心の所在が何処であれ、端的に優れたドキュメンタリであれば、必見と思います。

*1:ちなみに僕、誕生日でした。

*2:禁煙のくだりでインサートされた画はあまりにアコギだったけど、それもまたfake。

*3:そうした中で共同テレビの四人の画は、期せずして撮れた奇跡めいてアイロニカルなファルスであった。大晦日の特番の出演交渉なんて、それなりにプレッシャのかかる仕事にやってきて、結果映画で曝された方々には同情しもするけど、過度な重圧のかかる状態での人間の滑稽さが表出していたと思う。個人的には左の二人のがツボだった。

*4:ラストカットはすごくよかった。

*5:《心中だよ》のくだり、マジで嘘くさいけど、マジに言ってる可能性あるのが凄い。

*6:「子供たち」や「ハンディキャップ」がそれになっているのがいかにもだけれど。

*7:お父さんの話がせつないのと同時に、佐村河内氏の演劇人格も露出する名場面。