舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』新潮社

ネタバレ注意。
先輩に貸してもらって読みましたが、正直俺は、この作品を評価できるだけのモノサシを持てていないというのが正直なところ。
本格ミステリ*1や純文学、SF云々といったジャンル論は、この小説の些末な一要素を語るだけだ。理論物理学(?)や生命哲学(?)、愛や自我や時間や世界に関する観念が、まさに怒涛の如き量感と濃密で、自著をもウロボロス的に飲み込みつつ、集大成として「展開」される。その奔放さはいっそ独善的ですらあり、俺はこの作家を読むのにこれほどストレスを感じたことはない*2
正直言って半分ついていけないから、苦痛を耐える、という読み方はある程度不可避ではあるだろう。ただ、読み終えた時に残るのがある「感動」であることもまた確かであって。純粋に物語から得られたものなのか、それともこのアクの強い大部を読み了えたという達成感が含まれるのか、微妙なところではあるが。
たとえば了が打たれる間際のシーン。

 景色だって美しい。俺はあっちこっちから子供を攫うが、ヒマラヤやアラスカやボラボラじゃなくったって、例えばムンバイの昼の河岸の小さな手作り波止場の脇に忘れていかれた古いホーローの洗面器の縁に、緑色のつやつやしたカエルが乗っかってじっとしているのを見つけたときなど、しばらく立ち止まり、カエルがどちらに跳ねるのかをこちらもじっと待ってしまった。昼間の太陽と泥と河とカエル。小さな物事にも美しさと正しさがあって、そのカエルがインド訛りの強い英語でオックンオックン「行き止まりの道はない。行き止まるのは疲れたカエルだけ」と言った時には俺は感動のあまり天を仰ぎ見たくらいだった。
(下巻448p)

これを読んだ時には俺も天を仰いだ。
あれだけ執拗に世界を解体し、破壊し尽した後にふと、世界の美しさそのもののような情景を、こんなにも閉じて完結した描写に凝結させてしまう。称揚する巧い言葉が見当たらないが、このバランス感覚というか振れ幅というか、凄え。
こんなものを書いてしまったら、次はどこへ行くのだろうと心配になってしまうけれど。なにげなくBOXあたりからポンと出しそうな気が凄くするあたりが、この作家の偉大なところだと思う。
評価は不可能。

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

*1:まああれだけのスケール無比のバカトリックを乱発できるのは、ある種偏執的な愛情がないとできないと思うんだけどな。

*2:九十九十九』は感覚似てたかも。